カメラの話85 

   Camera85(Photographs are attached) 

   2008年3月20日(祝) 〜22日(土)晴

   「七福神」と春の里山。 (Xactiで撮影)

 

   「七福神」とは(ウィキペディアによる)

   神仏習合 インドのヒンドゥー教(大黒・毘沙門・弁才)、中国の仏教(布袋)、道教(福禄寿・寿老人)、日本の土着信仰(恵比寿)が

   入り混じって形成された、神仏習合からなる、いかにも日本的な信仰対象である。

   室町時代末期頃から信仰されていると言われている。

   但し、寿老人と福禄寿はともに南極老人星の化身とされることから、この二者は本来同一のものとみなし、

   寿老人の代わりに吉祥天や猩猩が入れられたことがあった。

   これは関西から始まったもの。

   誰がいつこの顔ぶれに、と定めたのかは不明。 時代によってこの顔ぶれに異同がある。

   猩猩、稲荷神が外れたのは、人間の姿ではなかったためとも言われている。

 

 

 

  
 

 

 

 

八朔

 

 

 

 

 

大黒天

インドのヒンドゥー教のシヴァ神と日本古来の大国主命の習合。大黒柱と現されるように食物・財福を司る神となった。

 

恵比寿

日本の神で古来から漁業の神でもある。夷、戎、胡、蛭子、恵比須、恵比寿、恵美須などとも書く。(夷、戎が海の外や東方をさすことから海浜の漂着物や外来のものを神として捉えたとする説がある)えびっさん、えべっさん、おべっさんなどともいう。恵比寿講においては漁業のみならず、「商売繁盛」や「五穀豊穣」をもたらす、商業や農業の神となった。現在では一般に七福神の一員として日本古来の唯一(その他はインド、中国の神)の福の神である。

 

毘沙門天

元はインドのヒンドゥー教のクヴェーラ神(日本の金毘羅の原型)で、これが仏教の神のヴァイシュラヴァナ(多聞天)になり日本では毘沙門天と呼ばれる。仏教における持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神である。

 

 

弁財天

元はインドのヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー神。元来、インドの河神であることから、日本でも水辺、島、池など水に深い関係のある場所に祀られることが多い。「日本三大弁才天」と称される神奈川県江の島・江島神社、滋賀県竹生島・宝厳寺、広島県宮島・大願寺はいずれも海や湖に面している。弁才天の「才」の字が「財」に通じることから財宝神としての性格をもつようになり、「弁財天」と書かれることが多くなった。

 

寿老人

道教の神で南極星の化身の老子。酒を好み赤い顔をした長寿の神とされ、日本では七福神として知られているが、福禄寿はこの寿老人と同一神と考えられていることから七福神から(猩猩が入る)はずされたこともあった。寿老人は不死の霊薬を含んでいる瓢箪を運び、長寿と自然との調和のシンボルである鹿を従えている。また、手には、これも長寿のシンボルである不老長寿の桃を持っている。

福禄寿

道教の宋の道士または、道教の神で南極星の化身の老子である寿老人の別名または同一神とされる。福禄寿はもともと福星・禄星・寿星の三星をそれぞれ神格化した、三体一組の神である。中国において明代以降広く民間で信仰され、春節には福・禄・寿を描いた「三星図」を飾る風習がある。福星は木星(十二次では歳星)とされ、多くは裕福な官服を着た黒髪の姿で三者の中心に描かれる。禄星は「禄」(lu)が「緑」(lu)と同音のため緑色の服装で、豊かさを表す金銭や嬰児を抱いた姿で描かれることが多い。寿星は南極老人星(カノープス)とされ、容貌は時期によって諸説あるが近代以降は禿げた長大な頭に白ひげをたくわえた老人とされることが多い。

 

 

 

 

 

 

 

布袋尊

袋尊(ほていそん)とは、日本の七福神の一柱。中国唐末の明州(浙江省)に実在したとされる異形の僧・布袋(ほてい)に由来する。大きな袋を背負った太鼓腹の僧侶の姿で描かれる。この僧の本来の名は釈契此(しゃくかいし)であるが、常に袋を背負っていたことから布袋という俗称がつけられた。四明県の出身という説もあるが、出身地も俗姓も不明である。図像に描かれるような太鼓腹の姿で、寺に住む訳でもなく、処処を泊まり歩いたという。また、そのトレードマークである大きな袋を常に背負っており、生臭ものであっても構わず施しを受け、その幾らかを袋に入れていたという。雪の中で横になっていても布袋の身体の上だけには雪が積もっていなかったとか、人の吉凶を言い当てたとかいう類いの逸話が伝えられる。彼が残した偈文に「弥勒真弥勒、世人は皆な識らず、云々」という句があったことから、実は布袋は弥勒の垂迹、つまり化身なのだという伝聞が広まったという。その最期にも不思議な逸話が伝えられており、仙人の尸解に類している。天復年間(9世紀末)に奉川県で亡くなり埋葬されたにもかかわらず、後日、他の州で見かけられたというのである。その没後あまり時を経ないうちから、布袋の図像を描く習慣が江南地方で行われていたという記録がある。その後、中国では弥勒仏の姿形は布袋になぞらえた太鼓腹の姿で描かれるようになり、寺院の主要な仏堂の本尊として安置されるのが通例となった。日本でも、黄檗宗の本山萬福寺で、三門と大雄宝殿の間に設けられた天王殿の本尊として、四天王や韋駄天と共に安置されている布袋尊形の金色の弥勒仏像を見ることができる。この像は西欧人にマイトレーヤ(Maitreya 弥勒)と呼ばれる。

 

 

 

 

 

 

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